子どもの「だいすき」を、素直に受け取れない人へ

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10月の3連休、2人の友人とそれぞれ別の日に、1対1でゆったりランチする時間がありました。2人とも、わたしから見ると本当に大人な対応ができて、大らかな子育てをしていて、ずっと素敵だなと思っていた友人たちなんです。

でも、ちょっと視野を広げてみると、どのご家庭にも祖父母や、自分自身・パートナーの兄弟やいとこといった家庭とのつながり、つながりならいいけど、しがらみみたいなものもあって、そういう人間関係の輪の中で生活しているんですよね。2人とも1対1で差しで話していたからこそ、もう変えられないかもしれない関係性との折り合いのつけ方とか、それでも拭いきれない嫌悪感みたいなものまで、ちょっと話せたんです。

それを聞いていて、みんな負の感情ともちょっと手をつなぎながらというか、それを否定しすぎずに付き合いながら、「でもこういう自分が好きだから」っていう自分でいる努力をしながら、悩んで生きてるんだなという風に思いました。


そのランチを経て、こんなことを考えていた時に、ふと「母になる覚悟」について考えが浮かびました。2人とも、わたしと同じくらいのお子さんを持つお母さんなんですけど、やっぱりかなり自分のライフスタイルが出産を機に変わっているんですよね。小学校に入学する兄弟がいる家庭もあったので、「下の子が小学校に上がる前に、またちょっとした自分のライフスタイルの変化が必要だよね」みたいな話もしていました。

「母になる覚悟」「親になる覚悟」って、言葉の中でよく聞くじゃないですか。これって普通、無償の愛を注ぐ覚悟みたいな、大変なこともあるからそういう覚悟っていう風に語られることが多いと思うんです。ちまたのSNSでも「無償の愛情を注いでくれているのは子どもたちなんだよ」みたいな発信を結構見かけるんですけど、わたしはちょっと違うなぁと感じて。

あくまでも視点としては、わたし自身、母側と考えていて、どんなにわたし自身がダメな人間だったとしても、ちょっと人としてこれは良くないんじゃない、終わってるな、みたいな行動や言動をしたとしても、子どもはやっぱりお母さんのことが大好きなんですよね。だから「母になる覚悟」って、無条件の愛を注ぐ覚悟っていうよりは、無条件の愛を受け取り続ける覚悟なんじゃないかなという風に思ったんです。


実はこの無条件さって、時には親にとってプレッシャーにもなりませんか?でも時にはやっぱり、「この子がいる」っていう救いにもなる。両方の顔を持っているなと思っています。

わたし自身、適応障害になった時期があるので、まさにこの無条件さに苦しんでいたんです。自分が今こんなにダメな状態なのに、あんなに「だいすき」って伝えてくれているのに、わたしは温かくそれを返せるような状態ではない、というところで、自分がいる意味がないんじゃないかとか、自分の存在自体の否定にやっぱりなりがちだったんですね。

でもこれって、本質的には自分自身の捉え方の問題ですよね。今は、子どもたちからの「だいすき」っていうのを、割と素直に、ありがたく受け取れているんです。変わったきっかけは、本当に徐々に徐々になんですけど、その適応障害期にも、自分の考え方の歪みだったり、認知の偏りだったり、いわゆる自分で持っているバイアスみたいなところに客観的に気づくような考え方や書籍を読むのが好きで、そういうのを取り入れていました。中でも『エッセンシャル思考』と『チャッター』は、当時のわたしにとってすごく参考になった本です。


少しずつ自分が変わってきた時に、わたしにとって一番使いやすい愛情表現の言葉として、パッと出てくる「え!、かわよっ!」みたいな、かわいいシリーズが出てくるようになったんです。「大好きって言わなきゃ」とか、今は情報が多いから「こういう言葉で伝えなきゃ」みたいなところが、ちょっと固定観念的に自分の頭の中にあったんですけど、わたしが自分の中から愛おしいなっていう時に出てくる言葉が「かわよ!」だったら、それでもいいんじゃないかって思ったんですよね。

だから普段、可愛いなって思う場面があるたびに、日々これを使うようにしているんですけど、そうすることで、自分が持っている愛おしさを自分でもその場で、リアルタイムでちゃんと伝えられているっていう実感が持てるようになったんです。


ここでちょっと脈絡ないんですけど、わたしもともと元JUDY AND MARYのボーカル・YUKIちゃんが大好きで、ソロになってからの「歓びの種」という曲が大好きなんです。結婚式の最後の退場、今までのわたしたちの生き様みたいなスライドを流しながら退場する、あの一番最後の曲としても選んだし、長女の名前を考える時もこの歌のことを絡めてるくらい、わたしにとっては人生の節目に関わってきた曲なんですね。

歌詞の中に、「与えられたのなら 受け止めよう 叱られてみよう 愛されてみよう 心の底から 信じてみよう」っていうフレーズがあります。「叱られてみよう」っていう一節、最近このことがあって思ったのは、「叱られる」ってなんか他人からっていうイメージがあるけど、実は大抵、自分が自分を叱ってるだけなんですよね。でも子どもや夫、両親、友達とか、自分の周りの人の方が、実は自分のことをたくさん許してくれていることの方が、よっぽど多いんじゃないかなって思ったんです。自分で自分を一番厳しくジャッジしていて、周りの人はそこまで責めていないし、むしろ許してくれているというか、そもそもそんなに気にしていない。この非対称さに、今回改めて気づかされました。

そう考えると、「叱られてみよう」っていう歌詞も、他人から一方的に叱られるのを受け入れるっていう意味じゃなくて、自分が自分に下している厳しいジャッジにこそ、ちゃんと向き合ってみよう、っていう意味だったのかもなと思いました。そして続く「愛されてみよう」っていうのも、よく考えると受け取る側の能動性を謳っている言葉ですよね。愛するの方が能動的な行為として語られがちだけど、愛されてみるっていうのも、ちゃんと勇気だったり意思がいる行為なんだなっていう風に、この歌詞が改めて歌ってるんじゃないかなって思いました。


とはいえ、受け取る覚悟っていうのも、言うのは簡単なんですけど、実際にやるのって結構難しくないですか?わたしも苦手分野なんですよね。特に自分を責めがちな時ほど、周りからの愛を素直に受け取れなくなりますよね。これ、めちゃめちゃわかります。実感があります。

そこで実践しているのが、以前このスタエフの超序盤、第9回「かわいいは私を救う」でも話した「かわいい記録」なんです。子どもたちが言い間違えた可愛い言葉とか、子どもって間違ったまま覚えてて、それをそのまま言ってたりするじゃないですか。そういう覚え違いした瞬間とかを、iPhoneのメモ帳に音声入力でどんどん残していく、「言葉のアルバム」っていうフォルダを一個作っておいて、今年だったら「長女7歳、長男5歳」みたいな簡単な見出しをつけて、可愛い発言ややりとりを聞いたらどんどんそこに入れているんです。

🎧関連放送:09.かわいいは私を救う

→ https://stand.fm/episodes/67c1cf001221f92b6f80cbd7

これ、心が荒んできたなって時に見返すと、イライラの沸点がふっと下がる感覚があるんですよ。わたしの中でのある種のアンガーマネジメントとして機能しているんですけど、今回のテーマとつなげて考えると、これってまさに、自分が周りから受け取ってきた愛おしさの証拠を記録しておいて、後から自分自身へ受け取り直すための仕組みなんだなって気づいたんです。

叱っているのはいつも自分であり、許してくれているのは周り。それに気づくことで、自分自身も許していく、というサイクルなんですよね。その事実をふとした瞬間に忘れてしまいがちだからこそ、こうやって記録に残しておくことで、そこに意識が向くように、何度でも思い出せるようにしているんだなという風に思います。


今日は、友人とのランチから始まって、母になる覚悟は愛を注ぐ覚悟より受け取り続ける覚悟なんじゃないかという気づきと、ユキちゃんの「歓びの種」の歌詞との関連、叱っているのはいつも自分だったという発見から、可愛い記録というちょっとした実践まで話してきました。

  • 母になる覚悟は、愛を注ぐ覚悟より、無条件の愛を受け取り続ける覚悟なのかもしれない
  • 叱られていると感じる時、実はそれは自分が自分を叱っているだけかもしれない
  • 周りからの愛おしさの証拠を記録しておくと、あとから自分自身へ受け取り直せる

愛されてみようを実際に実践する方法として、可愛い記録というツールが、わたしにとってはやりやすいし、すごく効果としても効いているんだなと改めて実感しました。

皆さんは、叱られてる、他人にもだし自分自身でも叱られてる、という風に感じる時、それって本当に周りから言われていることなのか、それとも自分が自分に向けていることだったりしないか。もしよかったら、感想や皆さんなりの受け取り方の工夫を教えていただけると嬉しいです。


音声で聴いてみる🎧

🎙 stand.fmの放送はこちら→【https://stand.fm/episodes/6acec3323bfe8069083386cc】

📝 ここでは書ききれない、もうちょっと個人的な話はnoteに綴ってます→【https://note.com/lively_chef1135】

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。それではまた!

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